社会保険庁長官は退職金を返納せよ!
相次ぐ社保庁の不祥事には開いた口がふさがらない。
加えて、先日厚生労働者が発表した歴代社保庁長官の『天下り先の退職金額』を見ると、口が開きすぎて「あご」がはずれそうになった。
例えば1986年に退職した正木馨氏は、2346万円。88年6月に退職した吉原健二氏は3046万円である。
一見すると、そこそこの会社の社長の退職金と同程度だからいいじゃないか!?と思ってしまうが、その在任期間と照らし合わせると、その異常さに驚くのである。
前者の正木氏の在任期間は1985年8月から86年6月の、わずか11ヶ月である。吉原氏の場合は86年6月から88年6月の、わずか2年である。しかも、かれらは複数の天下り先から退職金を受け取っているのである。
仮にこれが、民間企業なら税務署に「過大役員退職金」として、損金算入の対象にならない。つまり経費にならないとして否認されてしまうだろう。
例えば、税務上は、社会通念上妥当な退職金の計算方法として、以下のように計算される。
最終報酬月額×在任期間×功績倍率(1.0〜3.0ぐらい)
仮に正木氏が200万円の月給をもらっていたとして、2346万円の退職金をもらえるとすると、
200万円×0.916年×12.8倍=2346万円となる
つまり、功績倍率がなんと「12.8倍」というとんでもない数字になるのである。民間で一般的に1.0〜3.0が妥当と言われているにもかかわらず・・。
とすると、行政には「社会通念」というものはないのだろうか?
一歩、引き下がって「社会保険庁時代の功績に対して退職金が低かったので、天下り先でその差分を頂戴しています。」という論理があったとしても、その功績は5000万件もの保険料の受領を記録していなかったという「責任」で吹き飛んでしまうのではないだろうか。
だから、天下り先における社保庁長官の退職金を返納せよ!という議論は、筋の通った議論なのである。
退職金の返納があって「更生労働省」として初めの第一歩を踏み出したと国民が納得できるのではないだろうか。
行政の社会通念とは何かを改めて問いたいものである。
加えて、先日厚生労働者が発表した歴代社保庁長官の『天下り先の退職金額』を見ると、口が開きすぎて「あご」がはずれそうになった。
例えば1986年に退職した正木馨氏は、2346万円。88年6月に退職した吉原健二氏は3046万円である。
一見すると、そこそこの会社の社長の退職金と同程度だからいいじゃないか!?と思ってしまうが、その在任期間と照らし合わせると、その異常さに驚くのである。
前者の正木氏の在任期間は1985年8月から86年6月の、わずか11ヶ月である。吉原氏の場合は86年6月から88年6月の、わずか2年である。しかも、かれらは複数の天下り先から退職金を受け取っているのである。
仮にこれが、民間企業なら税務署に「過大役員退職金」として、損金算入の対象にならない。つまり経費にならないとして否認されてしまうだろう。
例えば、税務上は、社会通念上妥当な退職金の計算方法として、以下のように計算される。
最終報酬月額×在任期間×功績倍率(1.0〜3.0ぐらい)
仮に正木氏が200万円の月給をもらっていたとして、2346万円の退職金をもらえるとすると、
200万円×0.916年×12.8倍=2346万円となる
つまり、功績倍率がなんと「12.8倍」というとんでもない数字になるのである。民間で一般的に1.0〜3.0が妥当と言われているにもかかわらず・・。
とすると、行政には「社会通念」というものはないのだろうか?
一歩、引き下がって「社会保険庁時代の功績に対して退職金が低かったので、天下り先でその差分を頂戴しています。」という論理があったとしても、その功績は5000万件もの保険料の受領を記録していなかったという「責任」で吹き飛んでしまうのではないだろうか。
だから、天下り先における社保庁長官の退職金を返納せよ!という議論は、筋の通った議論なのである。
退職金の返納があって「更生労働省」として初めの第一歩を踏み出したと国民が納得できるのではないだろうか。
行政の社会通念とは何かを改めて問いたいものである。
2007/06/12
- 雑感