障害者の方と共に生きる社会性を持つということ
津久井やまゆり園で起きた殺傷事件は、戦後最多の犠牲者を出すという、悲惨で痛々しく、人権を踏みにじる許しがたい行為だと思います。
犯人である植松容疑者は、取り調べの中で「障害者は、社会的に不要な存在だから死ぬべきだ。」と語っているそうですが、この思想、考え方は根本的に間違っており、大変危険なものだと思います。
それは、人間が、あらゆる動植物の中で、最も高度で繁栄することができたのは、障害者を含めた弱者とともに共生することができたからという視点が全く理解されていないからです。
その点を、的確に説明しているのが、このQ&Aです。
この説明によると、健常者が持つ遺伝子は、障害者が持つ遺伝子より優れているのではありません。健常者の持つ遺伝子は「今の環境下において、有効であるかも知れない遺伝子」に過ぎません。
つまり、現代社会の人類にとって「障害」としかみなされない形質も、将来は「有効な形質」になってるかもしれないのです。
例えば、「知られざる脳の真実」と言う番組(7月2日NHK 土曜プレミアム)で紹介されていたホアンルイスさんは、盲目にも関わらず、マウンテンバイクを乗り回し、障害物を察知するという「エコロケーション」という特殊な能力を持ち合わせています。
もし、この世から光というものがなくなったなら、彼の持つ特殊な能力は人類が生き残るうえで必要な遺伝子として次世代に引き継がれる有効な形質となる可能性があるわけです。
ですから、可能であるならばできる限り多くのパターンの「障害(=つまるところ形質的イレギュラーですが)」を抱えておく方が、生存戦略上の「保険」となるわけです。
そのように考えると、今回の植松容疑者の思想と行動は、人権を踏みにじる許しがたい行為であるとともに、人類の生存を脅かす非常に危険なものであると言えるわけです。
同時に「社会に役に立たないから死ぬべきである。」という論理が成り立つなら、その主語を、植松聖に置き換えたときに、彼はそのことを受け入れなければならないということを理解できているのでしょうか。
もし、この犯人が、障害者は社会的に不要である、という意識ではなく、障害者とともに共生していくという社会性と寛容さを持ち合わせていたら、この事件が起きなかった可能性が高かったかも知れないと考えると残念でなりません。
障害者の方々と、共に生きる愛情あふれた社会を築き上げるために、私たちに何ができるのかを、真剣に考えなければならないと感じた事件であります。
アイネックス税理士法人
代表社員 川端 雅彦
2016/08/05
- 雑感