すべては被災者のために
去る7月13日に、私の所属するMMPGという団体の例会と研修会が仙台であり、当日の午前中、税理士の仲間4人でタクシーを飛ばして、被災地を見に行くことになった。
仙台市内から車を走らせて20分ぐらい行くと、原形を留めていない被災地の痛々しい光景が目前に現れた。
名取川河口近辺に来ると、「ここは閖上(ゆりあげ)という地名で、ここに商店街がありました。」とタクシーの運転手さんが説明してくれたのだが、遠くにお寺と、住めなくなった家が数件残っているだけで、ほかは文字通り跡形もなく、津波にさらわれていた。
心が虚脱状態になっていた。
そんな状態のなか、その日の午後に、今までに聞いたことのないほど感動した講演を聞くことになった。
講演者は「石井正」という方で、1963年生れで東北大学医学部出身の石巻赤十字病院に勤務する、自称「平凡な医師」である。
その平凡な医師が、東日本に激震が走るわずか1か月前の2011年2月に、宮城県知事から「災害医療コーディネーター」を委嘱されることになる。
まさに、この間一髪で石井氏が委嘱されたことが、不幸中の幸いであったと思うのである。
一月後、石巻は東日本最大の被災地となる。
講演の中身を、詳しく文章にできるほど記憶が定かでないのが歯がゆいのだが、石井氏の置かれた当時の極限状況をかいつまんでまとめると次のような感じであった。
−石巻医療圏にある86の医療機関のほとんどが津波による水没や停電で機能停止に陥り、診療継続が可能な施設は、石巻赤十字病院を含めて、わずか5施設だけになった。そのうち、高度救急医療に対応できるのは石巻日赤だけであった。
−殺到する救急患者、法的に死亡確認ができないが故に運ばれてくる遺体。そして、避難所300カ所、避難者数5万人、という途方もない数字だけが目の前に現れたものの、どの避難所に、どのような医療ニーズがあるか全く分からない状態だった。
−のべ3633にのぼる医療介護チームが存在し、意欲はあるがまとまりのない医療チームのボランティア集団で溢れかえっていた。
このような状況下、石井氏は「平凡な病院の医師」という立場から、いきなり「22万人の命がかかる「石巻医療圏」の医療救護活動を、災害コーディネーターとして調整する立場になったのである。
ここで、石井氏が取り組んだことを、おおまかにまとめると次のようなことでる。
1、「オールジャパン」ともいうべき「石巻圏合同救護チーム」を立ち上げ、統括した。つまり、駆けつけたのべ3633の医療介護チーム、約15000人を一つの組織にまとめあげた。
2、約300カ所に及ぶ避難所から情報収集して、極限状況下でのさまざまな医療ニーズに応えながら、ときには「医療」の範囲を超えた活動まで展開した。(そうせざるをえなかった。)
3、災害直後の「急性期」を過ぎて「慢性期」に入ってからは、打撃を受けた地元医療機関が再生するまで医療支援を継続し、地元医療にスムーズに引き継げるようにつとめた。
こういうと簡単そうに聞こえるが、15,000人の医者、看護師という同業者をまとめあげることは、並大抵のリーダーシップではできない。
例えば「なんで、日赤チームが救護チームをまとめているんだ!?」という批判をかわすため、日赤のユニホームである赤色のユニホームを脱ぎ棄て、黒色のTシャツに着替えて、救護チームをまとめていくなどの、心憎い配慮があったのである。
他には、各救護チームから出された要望や提案が具体的であれば、即採用、実行に移す。「提案するだけの提案」や「要望のための要望」などは、毅然とした態度で接したのである。
また、医療ニーズを把握するためのアセスメントシートを精度を求めるのではなく、スピードを重視したやり方に変更するよう指示するなど、優秀な指揮官ぶりを発揮しているのである。
事例を、詳しく知りたい方は「石巻災害医療の全記録 石井正著」をご覧いただきたいのだが、その思考と決断の全てが、聞いている私たちを唸らせるのである。
そして、石井氏は「すべては被災者のために、という医療者の魂が、あったからこれが実現できた。」「今後、発生するどんな災害にでも対応できる。」と語っていたのが印象的であった。
振り返ると、神が、災害が起こることを察知して、わずか1か月前に石井氏に「災害コーディネーター」という役割を任じたのではないかと思うほど、絶妙なタイミングであり、不幸中の幸いなのではなかったかと思う。
メモを取る暇もないぐらいに、石井氏の話に圧倒された90分であったが、経営にも通じる、かつ今の政治家の皆さまにも聞いていただきたい貴重な話であった。
石井正さんのますますのご活躍をお祈りしたいと思う。
2012/08/02
- 雑感